🕌世界史こぼれ話|権力に全てを捧げた中国の悪女たち

目次

〜権力・嫉妬・陰謀が渦巻く宮廷に生きた女性たち〜

中国史には、しばしば 「悪女」 と呼ばれる女性が登場します。
これは「美貌で国を乱した傾国の美女」とは異なり、
政治の中心に自ら踏み込み、皇帝すら左右した“女性権力者” のことです。

彼女たちは、

  • 皇位継承争い
  • 宮廷派閥の抗争
  • 皇帝の寵愛争い
  • 外戚 vs. 宦官の対立
    など、もっとも血なまぐさい権力の渦に生きた人々でした。

儒教文化の中で女性の政治介入は強く批判されがちで、史書では過剰に“悪女”と描かれた例も多いものの、
その生涯は中国史の裏側にある 権力ドラマそのもの と言ってよいでしょう。

今回は、中国史の中で特に強烈な存在感を放った“悪女”たちを紹介します。


① 呂后(前漢)

―息子をも追い詰めた、冷酷無比の“前漢の女帝”

呂后は劉邦の皇后として名を残し、劉邦の死後は事実上の独裁者として前漢を支配しました。
しかし、彼女が“悪女”として恐れられる最大の理由は、その 残忍さ にあります。


●側室・戚夫人への「人豚」事件

史記に記された呂后の冷酷行為は、中国史でも屈指の惨劇です。

呂后は、劉邦が寵愛した戚夫人を徹底的に痛めつけるため、

  • 手足を切断
  • 目をえぐる
  • 耳を削ぐ
  • 声帯を焼いて発声不能に
  • 糞尿のみ与えて生かし続ける

という、人間の尊厳を完全に奪う処置を施しました。

これが世に言う 「人豚(じんとん)」 です。

さらに、呂后は戚夫人の姿を息子の恵帝に見せつけ、
「これが母に逆らう女の末路だ」と言ったとされます。
恵帝はその残酷さにショックを受け、憤死の一因となった と記録されています。


●戚夫人の息子・趙王如意も毒殺

呂后は、劉邦と戚夫人の子である趙王如意が皇位を脅かす存在と判断し、
宮中に呼び寄せて 毒殺
恵帝が庇おうとしていたにも関わらず、呂后は冷徹にこれを排除しました。


呂后の専横は「呂氏の乱」へつながり、前漢の政治は大変動を迎えます。
悪女としての残虐さと政治的手腕が極端に同居した人物です。


② 武則天(唐)

―皇后から皇帝へ、血にまみれた道を歩んだ唯一の女帝

武則天は、中国史上唯一の“女性皇帝(則天武后)”。
その強烈な権力志向と残虐な粛清は、まさに“悪女”の典型とも言われます。


●娘の死を利用して皇后を追放(史上最悪の冤罪)

武則天の出世の過程で最も有名なエピソードが、
自分の幼い娘を殺害し、その罪を王皇后に着せた とされる事件です。

王皇后は冤罪をかけられ、冷宮に幽閉され、のちに毒殺。
この冤罪劇によって、武則天は皇后の座を手にしました。

(※史料により異説あり。ただし唐代の政治構造から“武則天の策謀”と見る説が最も有力)


●反対派を大量処刑した「酷吏政治」

武則天は強権政治を支えるために、来俊臣・周興ら 酷吏 を重用し、

  • 皇族の粛清
  • 官僚の拷問死
  • 冤罪による大量処刑

などを行いました。

史書には、次のような表現が残ります。

「武后の治、風を見て人を殺すが如し」

風が吹けば人が死ぬほど、彼女の粛清は恐れられていたのです。


●しかし“名君”としての側面も

  • 科挙の整備
  • 官僚の登用改革
  • 経済の安定
  • 女性の地位向上

など、政治的には極めて優秀でした。

“悪女”と“名君”が同居した、中国史でも稀有な女性です。


③ 太平公主(唐)

―唐の皇宮を血で染めた、陰謀の天才

武則天の娘である太平公主は、母譲りの政治才能と冷徹さを持ち、
唐の皇室を揺るがす暗殺・陰謀の中心人物となりました。


●韋后一派を宮中で惨殺

中宗の死後、皇后・韋后が実権を握ろうとすると、
太平公主は玄宗(李隆基)と手を組み、宮中に兵を突入させるクーデター を決行。

韋后はその場で斬首され(あるいは撲殺の説)、
その一派も大量処刑。
宮中は血の海となったと伝えられるほどです。


●皇族・官僚を操る“影の皇帝”

太平公主は、

  • 皇帝の妹という身分
  • 武門の血統
  • 官僚との広い人脈

を利用し、唐朝の政治を裏から動かす存在となりました。

しかし、その権勢は玄宗の警戒を招き、
最終的には 謀反の罪で自殺(または処刑) という悲惨な結末を迎えます。

太平公主の人生は、
「皇族の女性が権力の中心に立つ」ことの危険性を象徴しています。


④ 石亀皇后(北魏)

―嫉妬と陰謀で宮廷を支配した、北魏の暴虐王妃

北魏の石亀皇后は、後宮での嫉妬と権力闘争で悪名高い人物です。
その暴虐は、史書でも極めて強調されています。


●気に入らない側室を次々と毒殺

石亀皇后は皇帝の寵愛を独占するため、
皇帝が目をかけた女性を 毒殺または拷問 によって排除しました。

また、

  • 侍女を生き埋めにする
  • 宮中で女性たちを大量処刑

など、後宮を恐怖で支配したと記録されています。

(鮮卑系王朝では皇后の権力が強く、後宮は政治闘争の舞台になりやすかった)


●皇帝を自分の支配下に置く

石亀皇后は皇帝の政治判断にも干渉し、
気に入らない官僚を次々に罷免・処刑。
宮廷のバランスが崩れ、北魏内部の対立を激化させました。

“後宮の悪女”と呼ばれるにふさわしい人物です。


⑤ 慈禧太后(清)

―近代中国を揺るがした“ラスボス級の女傑”

慈禧太后は19世紀の清王朝をほぼ単独で動かした女性で、
中国史上もっとも評価が分かれる“悪女”です。


●戊戌変法の改革派を次々処刑

若い光緒帝が進めた近代化改革を、
慈禧太后は軍を動かして阻止し、

  • 梁啓超・康有為の追放
  • 「変法六君子」の処刑
  • 光緒帝の軟禁

など、反対派を徹底的に弾圧しました。

「清朝衰退の元凶」と批判される理由の大きな部分はここにあります。


●宮廷からの反対派・異民族の粛清

義和団事件後、内部不満が高まると、
慈禧は宮中の危険分子とみなした人物を容赦なく処刑。
皇族内部にも粛清の手を伸ばす冷酷さを持っていました。


●しかし政治手腕は侮れない

  • 財政の再建
  • 一部の近代化推進
  • 外交バランス

など、有能な側面も多い人物です。

“悪女”というより “権力の化身” と言う方が近いかもしれません。


🕌まとめ

中国史の“悪女たち”は、
単なる残忍さや嫉妬ではなく
国家レベルの権力を握った女性たち です。

彼女たちの行動は、

  • 政治構造の歪み
  • 後宮という閉ざされた空間
  • 外戚と宦官の抗争
  • 皇位継承の危険性

など、当時の社会を映し出す鏡でもあります。

残忍さと政治手腕が表裏一体だった彼女たちの生涯は、
中国史最大の“人間ドラマ”と言えるでしょう。


※この記事群は【教科別ミニ読み物】の一部です。
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